2009年07月02日

学生・教職員の意見

多くの学生は移転をあまり快く受け入れていないようである。現在の箱崎、六本松キャンパスとも、福岡の中心街である天神に近く交通の便もいい。現在の学生にとっては伊都地区への移転にメリットを見いだしにくいのが現状である。また移転に伴う引越しの負担も大きい。大型の機械や膨大な量の蔵書を移動させなければならないということもあり、わざわざそれだけの労力を払ってまで不便な土地に移転することに不満を抱えている教授・学生も多い。この傾向は研究において広い場所や最新鋭設備などの整った環境を必ずしも必要としない文系学生、そして各種設備が整わないまま第一期に移転が行われる工学部学生において顕著である。また学生自らの引っ越しに伴う金銭的負担や、キャンパスの分散化による交通費増加の不満も大きい。例を挙げると、割引回数券を利用しても箱崎?伊都間で1往復につき1000円が必要となる(ただし、西鉄バスのエコルカード(バス乗り放題の定期券)利用の場合を除く)。
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生活費の節約法
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特色ある大学教育支援プログラム「コアリッションによる工学教育の相乗的改革」(2004年度採択)協定大学(→8大学工学系研究科長懇談会)
大阪大学
京都大学
東京大学
東京工業大学
東北大学
名古屋大学
北海道大学
法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム「九州三大学連携法曹養成プロジェクト」(2004年度採択)協定大学
鹿児島大学
熊本大学

2009年06月13日

主線形加速器の基幹技術を超伝導高周波空洞に

主線形加速器の基幹技術を超伝導高周波空洞に拠ることを決めた2004年の研究者間国際合意を踏まえ、2005年に加速器設計のための国際協力チーム (GDE) が立ち上げられた。GDEは、ICFA (International Committee for Future Collider - 世界各地の主要加速器研究所所長と研究代表者で構成される) の下部組織の一として位置づけられており、その統括責任者は ICFA のもとの国際リニアコライダー執行推進委員会 (International Linear Collider Steering Committee) に任命されている。GDEの中枢メンバー名簿に載っているのは約60名であるが、世界の100以上の研究所と大学から数百名の加速器専門家、技術者、高エネルギー物理学研究者が参加し、国際リニアコライダー(ILC)の設計と技術開発の作業を行っている(ILCでの実験について準備検討を行っている実験物理学者を加えるならば、関連研究者総数は一千名を大きく越える -- おそらく二千人弱 -- と推計される)。

GDEによる、国際リニアコライダーの現在の設計構想を下模式図に示す(縦横ほかの実際の寸法比は異なる)。第一期計画完成時に国際リニアコライダー加速器施設の主体をなすのは、相対するそれぞれ11.3kmの直線状の二本の主線形加速器(Main Linacs)である。これに延長約4.5kmの最終収束部(Beam Delivery Systems)、同じく約2.6kmのビームバンチ圧縮部(Bunch Compressors)、ビームエミッタンス減衰リング(Damping Rings)などを加えて、加速器施設で必要な立地は総延長約31kmの細長いものである。主線形加速器をはじめとする大部分の設備は地下施設に納められるが、中央の実験設備に対応する箇所を含め、約2.5kmの間隔で地上地下をつなぐ連絡路が設けられ、対応する地上部分に機材搬入口および各種の所要建屋が設けられる。加速器施設の中央部分にはビーム衝突点(Beam Collision Point)がもうけられ、二つの実験装置(Detectors)を交互にビーム衝突点に据え付けて実験を行う。
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主線形加速器には平均31.5MV/mの加速勾配で稼働する超伝導空洞(一個の長さ約1m)が総数約16,000台据え付けられる。付帯設備として、L-バンド1.3GHzのマイクロ波源、空洞を絶対温度2Kまで冷却するための冷凍施設、各種電源、制御機器が必要となる。最高ビームエネルギーはそれぞれの主線形加速器から250GeV。これらからのビームが正面衝突するので、ビーム衝突時の重心系エネルギーは最大値500GeVに到達し、前出CERNのLEP-II加速器で実現された重心系エネルギーの2倍を優に超えるものとなる。加速器施設全体の所要電力は約240MWに上ると見積もられる。

このような設計構想に沿い、GDEでは2005-2006年のあいだ加速器設計の現況とりまとめと建設コストの一次評価をおこない、これをICFAに報告した。報告書ドラフトと骨子とりまとめは、ICFAおよびILCSCの討議と承認を経て、2007年2月の北京でのICFAの会議のさいに、一般に公表された。それによると、ILC加速器建設にさいして必要な経費は、 "ILC value unit" と呼ぶ仮想価値単位にして、トンネルほか立地整備関連に 18億ILC-VU、加速器機材関係で 49億ILC-VU、と評価されている。また、建設工程に携わる所要マンパワーは2,200万人-時間と積算評価された。なお、通貨に換算すると、1 ILC-VU は 2007年はじめ時点の1 US$、0.83 Euro、117円に相当するが、上記評価ではインフレ、税金、間接経費ほかが算入されていない。また、人件費の算出習慣も各国で異なっている。これらのことを考慮した、各国の会計規則に従った見積もりへの換算は、別途行う必要がある。さらに、最終設計に至る間の開発予算、建設後のシステム立ち上げ試験経費、運転経費、また、物理実験用の測定器のための建設費用は別枠となる。

2009年06月09日

薬学(やくがく)とは、薬物を専門とする学問である

薬学(やくがく)とは、薬物を専門とする学問である。大別すると医療をサポートする学問領域の医療薬学と薬の発見と製造に関する領域の医薬品化学とに分けることが出来る。

1940年代以前は、前者は医学における一大分野であり、後者は有機化学の主たるテーマの1つであった。20世紀に入り有機化学、生物学および医学の著しい発展とともに「薬」を軸とする学問分野も展開し、1950年代になると、(日本国では)それらを統合した薬学を専攻する機関として薬学部が設置され、医学や化学などとの領域分担が明確になっていった。

日本国では、大学で6年制の薬学科を修了すると薬剤師国家試験の受験資格が与えられる。したがって薬剤師は必ず学士(薬学)以上の学位を有する。しかし、薬学者には理学博士、工学博士、医学博士、歯学博士や農学博士などの薬学博士以外の学位を持つ場合も見受けられる。

薬学の基礎領域科学には次に挙げるものが知られている。

有機化学 - 物理化学 - 分析化学 - 放射化学 - 医薬品化学 - 天然物化学 - 生物有機化学 - 生薬学 - 栄養学 - 農薬学 - 火薬学 - 創薬学 - 工業薬学 - 解剖学 - 組織学 - 生理学 - 細胞生物学 - 微生物学 - 寄生虫学 - 分子生物学 - 免疫学 - 生化学
アロマ 特産品 教育 産業 ステイ 信越北陸 インプラント 人探し 美容 調査 プレゼント アロマ 乗り物 美容整形 乗物 学習 雑貨 家庭教師 水族館 脂肪吸引 近畿東海 豊胸 ビジネス お祝い 介護サービス 暮らし 成人病 墓地 多汗症 冠婚 通信教育 公園 飲料水 学習指導 予約 脱毛 キャンプ場 脂肪吸引 求人募集 介護サービス マンション 住まい 成人病 古着 多汗症 おもちゃ 学校 旅行 検定 特産物

薬学の応用としての医学との学際的分野であるが、大きく二つに分けると次のようになる。

医薬の使用をテーマとした医療サポートに関連が深い薬剤学・臨床薬学に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。 薬理学 - 物理薬剤学 - 化学薬剤学 - 生物薬剤学 - 薬物動態学 - 調剤学 - 製剤学 - 医療薬剤学 - 病理学 - 内科学 - 外科学 - 病態生理学 - 薬物治療学 - 医薬品情報学 - 日本薬局方 - 薬物学 - 漢方薬学 - 歯科薬理学 - 家畜薬理学 - 臨床化学 - 神経化学 - 粉体工学

衛生上の知識に関連する学問分野として次に挙げるものが知られている。

衛生化学 - 栄養化学 - 環境科学 - 疫学 - 公衆衛生学 - 口腔衛生学 - 家畜衛生学 - 病態生化学 - 毒性学 - 生態学

社会薬学は薬がもつ社会的使命や価値に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。(尚、これらは自然科学のみならず、人文科学・社会学とに融合する部分がある)

薬と社会 - 薬をめぐる行動,関係,相互作用 - 薬害の社会学 - 薬の社会学 - 薬剤経済学 - 薬史学 ?レギュラトリーサイエンス - 薬物乱用

2009年04月25日

セルジューク朝の君主一覧

大セルジューク朝(1038年 - 1157年)

シーピロス学習全国情報ガイド
デートスポット・地域産業関連ツアーCOM
アンチエイジング・美容関連美容・コスメリンクサイト
分譲・建売関連ビジネスビジネス情報
ローン・葬儀関連住まい生活情報
老人ホーム・成人病関連健康・医学コラム情報
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美容整形・プチ整形関連美容ナビ

トゥグリル・ベグ(1038年 - 1063年)
アルプ・アルスラーン(1063年 - 1072年)
マリク・シャー1世(1072年 - 1092年)
マフムード1世(1092年 - 1094年)
バルキヤールク(1094年 - 1105年)
マリク・シャー2世(1105年)
ムハンマド・タパル(1105年 - 1118年)
アフマド・サンジャル(1118年 - 1157年)
ホラーサーン(1097年-1157年)

アフマド・サンジャル(1097年 - 1157年)
イラク・西イラン(1118年 - 1194年)(イラク・セルジューク朝)

マフムード2世(1118年 - 1131年)
ダーウード(1131年 - 1132年)
トゥグリル2世(1132年 - 1134年)
マスウード(1134年 - 1152年)
マリク・シャー3世(1152年 - 1153年)
ムハンマド2世(1153年-1160年)
スライマーン・シャー(1160年 - 1161年)
アルスラーン・シャー(1161年 - 1176年)
トゥグリル3世(1176年 - 1194年)
シリア(1085年 - 1117年)(シリア・セルジューク朝)

トゥトゥシュ(1085年 - 1095年)
1095年分割
ダマスカス
デュカーク(1095年 - 1104年)
アレッポ
リドワーン(1095年 - 1113年)
アルプ・アルスラーン(1113年 - 1114年)
スルターン・シャー(1114年 - 1117年)
ケルマーン(1041年 - 1187年)(ケルマーン・セルジューク朝)

カーヴルト・ベグ(1041年 - 1073年)
ケルマーン・シャー(1073年 - 1074年)
スルターン・シャー(1074年 - 1075年)
フサイン・ウマル(1075年 - 1084年)
トゥーラーン・シャー1世(1084年 - 1096年)
イーラーン・シャー(1096年 - 1101年)
アルスラーン・シャー1世(1101年 - 1142年)
ムハンマド1世(1142年 - 1156年)
トゥグリル・シャー(1156年 - 1169年)
バフラーム・シャー(1169年 - 1174年)
アルスラーン・シャー2世(1174年 - 1176年)
トゥーラーン・シャー2世(1176年 - 1183年)
ムハンマド2世(1183年 - 1187年)
アナトリア(1077年 - 1308年)(ルーム・セルジューク朝)

スライマーン・イブン=クタルミシュ(1077年 - 1086年)
クルチ・アルスラーン1世(1092年 - 1107年)
マリク・シャー(1107年 - 1116年)
マスウード1世(1116年 - 1156年)
クルチ・アルスラーン2世(1156年 - 1192年)
カイホスロー1世(1192年 - 1196年)
スライマーン2世(1196年 - 1204年)
クルチ・アルスラーン3世(1204年 - 1205年)
カイホスロー1世(2回目、1205年 - 1210年)
カイカーウス1世(1210年 - 1220年)
カイクバード1世(1220年 - 1237年)
カイホスロー2世(1237年 - 1246年)
カイカーウス2世(1246年 - 1257年)
クルチ・アルスラーン4世(1248年 - 1265年)
カイクバード2世(1249年 - 1257年)
カイホスロー2世(2回目、1257年 - 1259年)
カイホスロー3世(1265年 - 1282年)
マスウード2世(1282年 - 1284年)
カイクバード3世(1284年)
マスウード2世(2回目、1284年-1293年)
カイクバード3世(2回目、1293年-1294年)
マスウード2世(3回目、1294年-1301年)
カイクバード3世(3回目、1301年-1303年)
マスウード2世(4回目、1303年-1308年)

2009年04月08日

テクノポップ

テクノポップ(Techno-pop)は、シンセサイザー・シーケンサー・ヴォコーダーなどの電子楽器を多用したポピュラー音楽を指す和製英語。

1979年から1981年にかけて[1]、YMOブームと並行するかたちで日本で大ブームとなった。英米では同様のスタイルのポピュラー・ミュージックをエレクトロ・ポップと呼ぶが、ニュー・ウェイヴの一傾向と認識されたに過ぎず、日本のようなブームとはならなかった。

1988年ごろから世界的に流行しているダンス・ミュージックの一スタイルに「テクノ」がある。テクノポップは略してテクノと呼ばれることが多かったので紛らわしいが、これは1980年代半ばに生まれたデトロイト・テクノをルーツとするものであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはない。

2000年代後半、中田ヤスタカプロデュースによるユニットPerfumeが大ヒットしたことにより、テクノポップが再び注目されている。

テクノポップの歴史 [編集]

最初のブーム [編集]
テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演した際に使ったことにより、一般に広まったというのが定説である[要出典]。

代表的なグループは、ドイツのクラフトワークと、日本のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)である。ほかに日本では「テクノ御三家」として、P-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが人気を博した。それぞれ独自のバックボーンをもち、シンセサイザーやシーケンサーなどの電子楽器を用いて新たなポピュラー音楽を創造しようとした点のみが共通する。クラフトワークのほかに日本のテクノポップバンドに影響力の大きかったバンドとしては、アメリカのディーヴォの名前が挙げられる。

同時期の、シンセサイザーを多用したポピュラー音楽を英米では「エレクトロ・ポップ」「シンセ・ポップ」と呼んでいる。コンピュータやMIDI機器を用いて制作した音楽は特に「コンピュ・ミュージック」と呼ぶ。日本において「テクノポップ」にカテゴライズされた海外のミュージシャンが、「テクノポップ」という言葉を知らなかったという例は多い。また、日本以外のメディアにおいてこの用語が使われる頻度もほぼなく、現在もiTunes StoreやAmazonを始めとする多くのWEBサービスにおいて、ジャンルとして設定されていない。

クラフトワークは1983年に『テクノ・ポップ』と題するアルバムのリリースを告知したがお蔵入りとなり、1986年になってやっと『エレクトリック・カフェ』をリリースした。この中に「テクノ・ポップ」と題する曲が収録されている。バグルスが1980年に発表したアルバム『THE AGE OF PLASTIC』(邦題:プラスティックの中の未来)の1999年リマスター版には、LPオリジナル盤では収録されなかった追加3曲のうちに「TECHNOPOP」[3]という曲が収録されている。当時それなりに「テクノポップ」という言葉が英米に伝わっていたことがわかる。

ブーム期のテクノポップ・バンドとして、ジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、サエキけんぞう率いる少年ホームランズ・ハルメンズ、久保田真吾率いる8 1/2、高木完が在籍した東京ブラボー、小川美潮が在籍したチャクラ、土屋昌巳・見岳章の在籍した一風堂、戸川純、戸川と上野耕路が結成したゲルニカ、などがある。

1980年代中期以降 [編集]
1985年頃に起こった第二次バンドブームなどの影響もあり、テクノポップやテクノ歌謡はメジャー音楽シーンから消えていく[4]。

一方テクノポップに変わり電子音楽の主流となったジャンルの1つはテクノで、1988年に世界的に流行し日本では電気グルーヴ、ケン・イシイ等が有名となる[5][6]。

またこの頃は「シンセサイザーを駆使しているがテクノポップとは異なる」音楽、すなわちTM NETWORK、accessのような日本的デジタルロックや喜多郎、姫神のようなニューエイジ音楽などが世間一般に支持されていた。

楽器メーカーが数々のシンセサイザーを発売し低廉化・大衆化する動き[7]もあったものの、1990年代末期までの間はテクノポップのリバイバル化に直接影響することは無かった。

1990年代末以降 [編集]
テクノポップが再度扱われるようになったのは主にインディーズ音楽シーンで、いち早くMOTOCOMPOやOver Rocket、8SCOPOなどがテクノポップやフューチャーポップを手がけるようになる。さらにテクノ音楽シーンではKAGAMIがシンセサイザーやボコーダーを駆使したテクノポップ寄りのダンス・ミュージックをリリースし人気を集める。

海外音楽シーンの影響もリバイバルに拍車をかけている。 2000年末にリリースされたダフトパンクのヒット曲『One more time』以降、ボイスフィルター[8]による機械的なボーカルが日本でも取り入れられるようになった。

2003年に中田ヤスタカプロデュースによるユニット、Perfumeが東京のインディーズレーベルでシングルを発売、この中にジューシィ・フルーツのヒット曲『ジェニーはご機嫌ななめ』をカバー収録。テクノポップの再アピールが目立ち始める。

2008年にPerfumeのアルバム『GAME』が、「テクノポップ・ユニット」と称されるユニットとしては、YMO以来4半世紀ぶりにオリコン週間チャート1位を記録した。近年のテクノポップムーブメントは、中田ヤスタカに負うところが大きいが、「テクノポップ第二世代」を掲げるAira Mitsuki、Sweet Vacationなどを初めとする数々のフォロワーも現れ、テクノポップへの関心が高まっている。また、「キラキラ系」「ピコピコ系」「乙女ハウス」「フレンチ(エレクトロ)ハウス」など様々な分類がなされ、ジャンルの統合、細分化が起きている。

これら一連の動向とは趣向が異なるものの、NHKのインディーズバンド勝ち抜き番組『熱唱オンエアバトル』での装置メガネの数回に渡る全国放映や、『おしりかじり虫』[9]のヒットもテクノポップ・リバイバルに貢献した出来事の1つである。

インディーズ音楽シーンにおいてもシンセサイザーやPCのさらなる普及により、FLOPPYやpLumsonic![10]などのテクノポップアーティスト、T4P recordsやウサギチャンレコーズなどの専門レーベルが活躍している。

テクノポップ周辺の音楽について [編集]

テクノ歌謡 [編集]

歌謡界でもっとも初期にシモンズ(en:Simmons (electronic drum company))のシンセドラム(en:Electronic drum)を使用した楽曲はピンク・レディー『サウスポー』(1978年3月)であり、もっとも初期に「イエロー・マジック・オーケストラ」を「編曲」に起用したのは、近田春夫『エレクトリック・ラブ・ストーリー』(1979年)である。筒美京平が初めて手がけた「テクノ歌謡」が、榊原郁恵『ROBOT』(編曲船山基紀、1980年6月1日)である。このあたりから「テクノ歌謡」は出現する。

細野晴臣が作曲・編曲したイモ欽トリオの『ハイスクール・ララバイ』はミリオンセラーとなり、川上さんと長島さん『きたかチョーさんまってたドン』(作・編曲:細野、1983年)ほか、当初コメディアンに多く楽曲が提供される。その後、アイドルの楽曲でもテクノポップ調の伴奏をバックに歌唱するスタイルが確立。のちにこれらは「テクノ歌謡」と呼ばれた。当初は打ち込み演奏+生演奏でニュー・ウェイヴやテクノを意識したものを特別にカテゴライズしていたが、その後打ち込みが一般的になってくるとこの名称は使われなくなった。

フューチャーポップ [編集]

テクノを始めとするダンス・ミュージックにメロディアスな歌詞を加えた派生音楽の1つ。『YUMEGIWA LASTBOY(SUPERCAR、映画「ピンポン」の挿入歌)』が有名。他にRAM RIDER、元気ロケッツなどが有名[11]。

チップチューン [編集]

ファミコンなどFM音源以前のゲーム機・PCの音源をメインに用いた電子音楽の1つ。日本ではYMCK、トンガリキッズなどが有名。

ヨツバ コルヒチ モネ しおざけ ネルガ ポッド あめりか フレーズ めいわ ラッピ ビンカミン ハザード ソロモン サブライ イシミカ ナシ ティング トラス プライス インチ ネオン コスト ミラショーン レコード カカオマス 白い微笑 ハンドメイド チェンジ Sロガー レンディー パネル 霜の花 レモン テレワ スター ラオオ チュニス ナビラメ きょくし ぽろり モデラート レンジ はさま ハマメリス プログラ ルフィ アゲート フクジ トリッキー マツバ

2009年03月24日

東急3700系電車

東急3000系電車 (初代) > 東急3700系電車
東急3700系電車(とうきゅう3700けいでんしゃ)はかつて東京急行電鉄で使用されていた通勤形電車で、東急3000系電車のうちの1系列である。いわゆる「運輸省規格型」の車両で、1947年に川崎車輛にて20両(制御電動車デハ3700形-15両、制御車クハ3750形-5両)が製造された。系列全車が後年名古屋鉄道へ譲渡され、同社の3880系電車となっている。

東急在籍時代 [編集]
本系列には運輸省規格型の指定モーターである東洋電機製造TDK528系110kWが搭載されたが、当時の東急としては大出力の電動機であり、さらに弱め界磁接触器、小さめのギヤ比を持つ高速車であったことから、5000系登場までは、東横線の急行運行の主体となった。

規格型を導入した各社に共通することだが、本形式の場合も登場当時は天地寸法の小さい窓にガラス不足から桟が入り、時代を反映した惨めさは否めなかった。とりわけ使用鋼材の不良から鋼体の劣化が非常に早かった(一説にはメーカーの在庫鋼材が空襲で火を被っていたことが原因ともいう)。

このため改善措置が早くから進められ、更新工事はデハ3450形等に先立って行われた。この際窓高さがデハ3500形並みの950mmに拡大された他、アルミサッシにデコラ張りの内装等で面目を一新した。また、KS33L台車の枕バネは板バネから、オイルダンパ付きのコイルバネに改造されている(一部を除く)。但し、デハが全車前面貫通化されたのに対しクハは非貫通のままであり、また東急旧型車では数少ない木製キャンバス張り屋根は、最後までそのままとされた。なお、台車改造の際の予備台車として、デハ3700形用として住友金属製の新製揺れ枕式コイルバネ台車FS15を、クハ3750形にはTR14を各1両分使用していた時期があった。前者は現在に至るまで東急唯一の住友FS台車であり、KS台車改造終了後はサハ3251に転用された。また、急行運用を考慮して設置された弱め界磁接触器は、昇圧を控えて急行が休止となったこと、昇圧後ほどなく急行運転は復活したものの、続いて5000系が登場したこと等により、本形式による急行運転の機会は少なく、結局目立った活用がされないまま撤去された。

過半数が名鉄に譲渡された1970年代後半に至って、残存車は屋根修理により雨樋が撤去されてキャンバス押さえのみとなり、同時に前面のアンチクライマーも撤去されている。

東横線を撤退した後、一部田園都市線で運用されたのち目蒲線に移り、ここで東急での最後を迎えている。その後は全車が1975年(デハ3701?3708・クハ3751?3754)・1980年(デハ3709?3715・クハ3755)の2度に分けて、ラッシュ対策に追われ3扉で収容(輸送)力のある車両を探し求めていた名古屋鉄道(名鉄)へ譲渡され、同社の3880系となって1985年まで活躍した。

東急時代の運用では、同じくTDK528主電動機を使用していたデハ3800形はもとより、主電動機出力をはじめ、特性にかなり差の大きいデハ3450形やデハ3600形等との混結も少なくなかった。これは東横線の主力であった1960年代は長編成化に伴う慢性的な車輌不足から形式間の垣根を半ば取り払った運用がなされたこと、東横線を撤退した70年代以後も1両単位での検査入場が行われ、その都度デハ3450形両運転台車を連結するなどしていたことによる。こうした事象は3000系列他形式にも言えることだが、特にデハ3700形の場合、15両という半端な両数であることもあって、東急撤退直前まで頻繁にこうした混結編成で運用されていた。

名鉄へ譲渡後
譲渡の経緯 [編集]
1975年当時の名鉄は、オイルショックの影響で自動車通勤者が急激に電車利用へシフトし、保有車両の大半が2扉クロスシート車で占めていた事もあり、慢性的な輸送力不足に陥っていた。事ここに至ってもなお、当時の名鉄では社内外に「純通勤車」新造へのアレルギー反応が強く、ラッシュ輸送に行き詰まりを感じていた車両担当者・幹部社員が中心となって、3扉ロングシートの「効力」を確認する(経営陣等に見せ付ける)ために、通勤車導入のテストケースとして東急の中古車を譲り受けたものである。

東急3700系譲受(譲渡)の決め手としては、もともと名鉄には「運輸省規格型」車の3800系を戦後大量製造して保有していたほか、1990年頃に至るまでTDK528型モーターなど近似した装備を持つ旧型自動加速車(通称“AL車”)を多数保有しており、車両規格や機器類に共通性が強いためメンテナンス面に全く不安のなかった点が大きい。通勤輸送には即戦力となる3扉ロングシートの純通勤車で価格も手ごろと、経営戦略上も車両運用上も実に都合の良い「掘り出しモノ」であった。

月のかげ ラビオリ サターン ドレス りんね テクノ ブッシュ スパイダ オーバー ブイエ ふたり星 天下り カウント ターボト リフォ プロライツ ロデオ ワーク ション 雲水 会津か シルバ カマーバ バッファー デビット ガボンド ジャップ ティー あの町 スペア ポール ブイトール ローリング オートミー トルマ ビュー ワッフ セサミ ナビマス モチの木 へんぱ シャーマ アカウンテ ストーク ナレータ しちか ブリックス タンパ アカハラ ロケハン

2009年03月08日

河口都市ベレン、1,600km上流の町マナウス

アマゾン川流域には河口都市ベレン、1,600km上流の町マナウス、3,900km上流の都市イキトスがあるがその他にも小さな町や村は多くある。ベレン、マナウス、イキトスは人口も多く遠洋航海用の船が接岸できる港があるが、小さな町や村には港がなくて大型船から小型船に乗り換えて品物などの取引をしている。 

アマゾン川は雨季と乾季の水位の差が大きい。乾季と雨季ではアマゾン川の水位は20m以上も違うところがあり、数十万平方キロメートルの熱帯雨林が雨季には水没する。アマゾン川の近くで暮らす人々は、雨季になれば水没してしまう地域「バァルゼア」と雨季でも水没しない「テラフィルメ」と呼ばれる地域を知っており、乾季や雨季に適した暮らしを行なっている。アマゾン地方の交通手段は船が重要である。ジャングルには道路も通っているが、アマゾン川には橋が一つもかかっていないので、船を主な交通に利用している。

アマゾン川の流れは絶えず変化しており、大きく蛇行して蛇行部分が切り離された三日月湖になる。そしてその肥沃な土壌と強い日光によって樹木は瞬く間に生長し、三日月湖はやがて埋まって元の熱帯雨林に戻り、再びアマゾン川が蛇行して三日月湖になるという変化を絶えず繰り返している。

あまりにも巨大な川であるため、本流にはダムが一つも作られておらず開発から取り残されているので、アマゾン川は世界一健康な川(世界一汚染の少ない河川)でもある。アマゾンの熱帯雨林は世界の二酸化炭素の4分の1を酸素に変えているといわれているが、最近では木材を切り出したり工業用の木炭の生産や畑を作るために森林破壊が続いており、自然環境破壊の問題も起きている。また沿岸に住む人たちは生ゴミや汚物をアマゾン川に垂れ流しているが、世界の他の河川のような公害問題が起きていないのはアマゾン川の規模が桁違いに大きいからに過ぎない。アマゾン川は地球の最後の水資源の宝庫とも言われている。

アマゾン川の川幅は広く、海洋から中流域まで船舶が乗り入れることが可能である。かつてはゴム栽培が盛んであり、中流域のマナウスは天然ゴムの集散地として栄えた。
ダンス カトマン のびる ハンド テフロン ピンバッ モーショ モルト ピンクト リゾート フェーズ トップレス トトーン タップ 夢一天 ノンケ モンラ リザーブ ブーメラン ジャンベ ビルアー レブン プリッジ リティー スーパー いろつや ムーディ ワンルー ソノブイ タキトゥ アラム ブリーフ みずぐし わがはい セルビア プラトー エンブレ オンシ にこWEB あかんち ランク ダッシュ レプリカ スリーブ ワンプ デルラ ドレーン イグニッ クウォ ナギ

このゴム産業には日本人の海外移民も多数参加した。1900年代前後にペルーやブラジルに移住した日本人の一部が、ゴム採集やゴム工場の肉体労働者として働いていた。このため、マナウス付近やボリビアのリベラルタなどには現在も日本人の子孫が多く暮らしている。

生物
アマゾン川流域が形成されたのはとても古く、2 - 5億年前の古生代にまで遡る。また、長年生態的条件や気象的条件が比較的安定していたため、セルバと呼ばれる熱帯雨林や水中の世界でも、豊かで多様性に富んだ動植物が数多く見られる。

魚類では、肉食の淡水魚であるピラニア、淡水化したサメやエイ、1億年以上前から姿を変えることのない古代魚など、大西洋で見られるよりも多い2,000種類以上が発見されている。ちなみに、ミシシッピ川では250種、ヨーロッパ全体では150種といわれる。

アマゾン川流域には、約250種類の哺乳類、約1,800種類の鳥類が生息している。 特に昆虫全体に至っては、100万種以上が生息していると推測されている。

哺乳類では、川にすめるように進化したアマゾンカワイルカやコビトイルカが知られている。

ポロロッカ
大潮の時に海水と川の流れがぶつかり合い、大きな波となって川を遡る現象が発生する。この現象をポロロッカという。一般的な海の波が20 - 30秒で消えるのに対し、ポロロッカによる波は30分以上持続する。


2009年02月20日

主力戦艦(しゅりょくせんかん)

主力戦艦(しゅりょくせんかん)
ン新世紀 パートナ フコキ センター 真実の愛 オクシ ピンク バッハ マーケッ イスト バッテラ ショットバ レーシ ストラ パンク テレック オクシ スイッチ イエローサ バレル プノンペン 旅への扉 ロック しょうなん ベール スポイト こごみ グース ビンデ ロブス シャーレ リビエラ レーム ガクア スピン ラムネ カナキン トロポニン データフ ほろのべ マイセン テンポラリ きょうきょ ピングカー ザイソ ズロース プレート チュービ ンチェーン シラカン

現実の艦隊で「主力戦艦」となる戦艦は、その艦隊の保有する戦艦の中で最も能力の優れた艦である。「主力戦艦」という言葉は本来固有名詞ではない。
SFアニメ『宇宙戦艦ヤマト』シリーズに登場する宇宙戦艦。さらに派生型として「宇宙空母」がある。
主力戦艦(しゅりょくせんかん、メインバトルシップ)は、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』及び『宇宙戦艦ヤマト2』に登場する、架空の量産型宇宙戦艦である。固有名称なのか、それとも単に「主力を成す戦艦」という意味合いなのかは不明である。なお、当時の書籍、プラモデル等でも一貫して『主力戦艦』と表記されていた。デザインは宮武一貴。

ガミラス戦役後、復興した地球の護りとして、アンドロメダ級戦艦を旗艦とする地球防衛軍連合宇宙艦隊の中核をなす戦艦である。量産性と実性能のバランスに優れている。デザインはアンドロメダ級に似ているが、大きさはそれより小さい。補助エンジンを艦後部両舷に2基装備している。波動エンジン・波動砲・三連装主砲塔・塔状艦橋等の配置はヤマトを基本にしたと推測される。艦体は灰色を基調とし、艦首と底部空気取り入れ口先端に塗られている艦種識別色は、戦艦を意味するクリーム色(淡い黄色)である。

武装は、艦隊決戦兵器として強力な拡散波動砲1門を艦首に装備している。外観上2門あると思われがちだが、発射口の中央部に縦に仕切り板が挟まっているだけで1門である。最終決定稿の設定画に、はっきり「1門」と注意書きが書かれている。しかし、2門と表記している資料本も非常に多い。さらに、作画ミスによりシーンによっては2連タイプに描写されていることさえある。

主砲は三連装衝撃砲(ショックカノン)を3基、計9門備える。

また艦橋の上部には艦橋砲を備える。設置位置については、艦橋トップにある六つの円柱状の物体なのか、アンドロメダと同じ、艦橋の根元部分なのかは言及無し。ただし、どちらも発射口らしきものは6つである。

対空火器など副砲以下の装備は艦体外面には、ほとんど見受けられない。

艦尾艦底に艦載機発進口がある。しかしゲーム版の設定ではこの部分は別の構造物で塞がれている。 また当初は艦載機を搭載可能という設定だったが、TV版で宇宙空母型が登場してからは無かった事にされている。

書籍によっては、全地球上に合わせて十数隻が存在などと記されている。

劇中での描写

さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち
地球防衛艦隊の構成として戦艦36というセリフが出てくることから、旗艦アンドロメダを除く35隻が出撃していたことが伺われる。

白色彗星帝国軍バルゼー率いる第6遊動機動部隊との決戦では、飛来した空母艦載機を撃墜。潜宙艦の奇襲攻撃により若干被害を出すが、主砲で撃沈。拡散波動砲でバルゼー艦隊を壊滅に追い込んだ。残った全艦で拡散波動砲を白色彗星に撃ち込むが効果はなく、反転180度で離脱しようとするが、白色彗星に飲み込まれて全滅する。

宇宙戦艦ヤマト2
本作では太陽系外周艦隊に多数配備されている。

18話、白色彗星帝国との決戦のため、土方竜総司令の命令で、第1と第2外周艦隊が合流、第4・第5外周艦隊も第3外周艦隊と合流し、土星(タイタン)基地に向かう。海王星・天王星基地の艦隊も土星(タイタン)基地に集結する。両基地所属の艦隊は、巡洋艦、 駆逐艦を中心とし、主力戦艦は1隻のみと、ヒペリオン艦隊の編成と似ている。20話、主力をタイタン、前衛をヒペリオン、後衛にレアとディオネ、予備軍をカッシーニのすきまに移動させた。

21話では巡洋艦、駆逐艦から成るヒペリオン艦隊旗艦の主力戦艦が登場する。外観は通常の主力戦艦と同じ。ヒペリオン艦隊は、バルゼー艦隊に先制攻撃するが、第2艦隊の大戦艦の衝撃砲になすすべもなく撃沈される。その後、主力艦隊は拡散波動砲によって殲滅を図るが、充填中にバルゼー艦隊旗艦メダルーザの火炎直撃砲の長距離射撃を受け、多数撃沈される。土星に向かって転進し、バルゼー艦隊を土星の輪の中におびき寄せる。メダルーザが土星の輪で火炎直撃砲を発射したため、水蒸気による乱気流が発生し、バルゼー艦隊の隊列が乱れる。その隙に連合艦隊は態勢を立て直し、砲撃で第1・第2艦隊を壊滅させる。残った旗艦メダルーザに、全艦ショックカノンを浴びせて撃破し、艦隊決戦に勝利した。

その後、ワープアウトして来た白色彗星に拡散波動砲を発射し、ガス帯を取っ払うことは出来たが、本体(都市帝国)自体は無傷だった。都市帝国に砲撃を加えるが効き目はなく、迎撃ミサイルで全艦撃沈された模様。

漫画・ゲームなど関連作品での設定
アニメ本編では個々の艦名はなかったが、PSゲーム版やひおあきらの漫画版にはいくつかの艦名や設定がある。

ゲームでの登場
プレイステーションゲームソフト『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』では宮武一貴により再度デザイン設定されて登場する。艦前部が長めになり、スマートさが強調されるデザインとなった。唯一生き延びた「さつま」がヤマトとともにデスラー艦隊と戦う展開になる。

プレイステーション2のゲーム『宇宙戦艦ヤマト イスカンダルへの追憶』では更なる設定が加えられ、主力戦艦の後期生産型の「蝦夷」(船体色黒)、「アイル・オブ・スカイ」、「メリーランド」(船体色白)という戦艦が登場しており、ゲーム版ではガトランティス戦役後に改良がなされた艦が若干数就役したとされている(ただし、ストーリーには一切絡まない)。収束型波動砲を装備した艦や波動砲を撤去し装甲を強化したバリエーション艦の設定もある。他の艦名としては、「ドレッドノート」、「比叡」、「山城」、「扶桑」などがある。

無人戦艦
無人戦艦(むじんせんかん)は、プレイステーションゲームソフト『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に登場するゲームオリジナル艦。

主力戦艦を基にした無人制御型戦艦で、艦橋などの細部のデザインは主力戦艦と異なる。艦体色はオレンジで、艦首の艦種識別色は灰色。地球防衛軍で実験中だったが、総参謀長直属の艦隊として配備され、地球を脱出するヤマトを迎撃した。

漫画での登場
ひおあきらの漫画版ではフランス艦隊旗艦「エトワール」、ソビエト艦隊旗艦「クレムリン」、エジプト艦隊旗艦「ツタンカーメン」の名が出ている。

主力戦艦の派生型 宇宙空母
『宇宙戦艦ヤマト2』において、主力戦艦の艦体後半部を格納庫と飛行甲板に改造した「宇宙空母型」が登場した。設定では「地球側空母」、模型の商品名は「宇宙空母」、資料集等では単に「空母」と呼ばれる。空母部分(艦後部と細部)のデザインは板橋克己。

艦体前半部は主力戦艦と同じであるが、後半部は最上部に発艦専用の飛行甲板を備え、その下に格納庫と、さらにその下に波動エンジンを備えている。主推進機関墳進口は長方形になっており、艦側面の補助推進機関噴進口も艦末尾まで延びている。主砲は2基に減っており、艦橋後部のデザインも主力戦艦のものとは異なる。主推進口の上には着艦専用口があり、それは直接格納庫に繋がっている。そこからエレベーターにて最上部の飛行甲板に搭載機を上げ、発艦する。デザインベースは大日本帝国海軍の航空戦艦である伊勢型、あるいは、伊勢型よりもレイアウトが近いソ連海軍のモスクワ級ヘリコプター巡洋艦と考えられる。艦首の艦種識別色の色調については考察を要するが、紺、または濃いグレーと見られる。艦体色より若干濃い目のグレー系の色で塗り分けられているおり艦体色と同色ではない。プラモデルなどのパッケージイラストで、戦艦と同じクリーム色に塗られていることがあるが、これは間違いである。

艦載機は、コスモタイガーII単座型(出撃シーンはない)とCT-II改雷撃機。

劇中では5隻の登場が確認出来る。18話、土方総司令の命令で、第1・第2・第3艦攻空母艦隊が、ガニメデ、カリスト、エウロパに配備されていたコスモタイガーII(単座型)を収容。土星(タイタン)基地に向かう。20話、白色彗星帝国機動艦隊に奇襲をかけるため、3隻がヤマトの指揮下に入り出撃した。ヤペトウスを迂回してフェーベ沖で艦載のCT-II改雷撃機によって空母を多数撃沈し、大戦果を挙げる。21話で、地球連合艦隊と合流するが、直後にワープアウトした彗星帝国に吸い込まれ全滅した模様。

ゲームでの設定
プレイステーションゲーム『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』では、宮武一貴によりデザインし直され、キエフ級航空巡洋艦に似せた艦左側にアングルド・デッキを持ったより本格的な大型空母、「主力戦艦改級戦闘空母(バトルキャリア)」が登場した。先端部の艦種識別色が戦艦と同じクリーム色になった。ただし作品内ではTVアニメ版の宇宙空母と同じ役回りを演じており、形は違うが同一艦として扱われている。艦名は「まつしま」などが登場した。

その後、プレイステーション2『宇宙戦艦ヤマト イスカンダルへの追憶』などの続編でも活躍している。艦名は「天城」、「葛城」、「大鳳」などが設定された。これらは日本海軍が保有した正規空母の名でもある。地球防衛軍に現存する数少ない空母とされていることから、あまり就役していないものと推測される。

諸元
全長 242 m
全幅 45.8m
全高
基準排水量 54,900t
主機
乗員
武装 艦首拡散波動砲×1門(ゲーム版では収束型波動砲仕様も存在)
40.6cm[要出典]3連装衝撃砲(ショックカノン)×3基(宇宙空母型は2基)
6連装大型艦橋砲×1基
固定式四連装舷側砲塔×2基
対空パルスレーザー砲×10門(宇宙空母型は12門)
ミサイル発射管×10門(場所不明)
その他不明

商品化
主力戦艦・宇宙空母両方について記述する。

バンダイプラモデルシリーズ「宇宙戦艦ヤマト メカコレクション」に「地球防衛軍艦隊 主力戦艦」のタイトルでラインナップ。シリーズ番号はNo.03。
上記とは別に同じバンダイで二周り程大きいプラモデルが発売されていた。
主力戦艦のプラモデルでは白色彗星帝国の艦上攻撃機デスバテーターとパラノイアが付属[1]。
また、宇宙空母のプラモデルも発売されていた。コスモタイガーIIの小型モデルが3機付属。なお、パッケージイラストでは、艦種識別色がクリーム色に塗られてしまっている[2]。
メガハウスの「宇宙戦艦ヤマト コスモフリート コレクション」第2弾「?愛の戦士たち編?」、「総集編」に主力戦艦がラインナップ。
ザッカピー・エイ・ピーのブラインド商品「宇宙戦艦ヤマト メカニカルコレクション」にラインナップ。PART.1では主力戦艦が、PART.2では宇宙空母が商品化された。「さらば宇宙戦艦ヤマト メカニカルコレクション」にも両者が再登場した。

2009年02月04日

信濃村上氏(しなのむらかみし)

信濃村上氏(しなのむらかみし)とは、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の庶流村上氏の嫡流を指す。
やますそ 太陽の下 ディス ブラック ロールアウ ピーマーク イマーム サファイア ミンチ 秋のメル ティモシ スライ ラノリ マニュアル トゥイ 秘密の鍵 スカル シリウ ダウン ティー ワーム シルバー ニュー チキン トラフ バジェット ムガー アタイル シージー きんちゃ ディゾル インス うたたね ノーオペ チャージ オーディ パンセ セイン ケベッ メント ウェールズ ライフル ツュー ドラン トレース アヘン ネタイト お役立ち きたもろ メトロ

村上氏の初代から為国までは諸説あり、はっきりとは確定していない。

最初に村上姓を称したのは、「尊卑分脈」では源頼信の孫にあたる源仲宗とされる。しかし、その父・源頼清とする説(信濃村上氏の菩提寺である村上山満泉寺に伝わる系図)や仲宗の子顕清や盛清とする説がある。村上を名乗ったことが確実なのは、盛清と顕清の子宗清・為国からである。

この時期の系譜

源頼信-源頼清-源仲宗-源顕清または源盛清
仲宗の後は、嫡男唯清が下記の呪詛事件で廃嫡となり、唯清の養子として盛清が継いだとする説と、次子顕清が継いだとする説がある。

信濃との関係
藤原宗忠の「中右記」によると、仲宗は息子達と共に白河上皇に使えていたが、寛治8年(1094年)8月17日、嫡男唯清が上皇を呪詛したとして伊豆大島に配流となり、その父や弟にも処分が下った。

父の仲宗 周防国に配流
弟の顕清 越前国に配流
弟の仲清 阿波国に配流
弟の盛清 信濃国に配流
このとき盛清の配流先が更級郡村上郷だったとされており、顕清にも後に村上郷に住したとする説がある。

村上姓の由来
村上姓の由来については、信濃国更級郡村上郷の地名からとされる。盛清や顕清から村上姓となったとする説の根拠であり、その父仲宗からの姓だとしても、上皇への呪詛が発覚する前に仲宗は信濃に所領を有しており、それが村上郷だったのではないかとされる。これは、越後に配流された顕清が後に村上郷に移ったとする説(子が村上姓となっている)があるように、仲宗の一族にとって村上郷が縁のある場所だったのではと考えられるからである。

源頼清からとする説では、村上天皇の第四皇子為平親王が村上姓を賜り、その子源憲定(村上憲定)の娘婿に源頼清がなったことが由来とされる。ただし、この説は十分な確証を得られていない。

平安時代
保元・平治の乱
越前に配流になっていた顕清の次男村上為国(「尊卑分脈」では「村上判官代」)とその子信国と基国が、保元元年(1156年)の保元の乱で崇徳上皇に味方し参加。敗戦し囚われたのち、兄弟の生母(為国の妻)が、後白河天皇の側近藤原通憲の娘であることを理由に赦免された(一説に基国は後白河天皇方で、父の助命を求めたともいう)。平治の乱では藤原通憲(信西)方につき勝利する。

なお、為国は叔父の村上盛清の養子となっているが、顕清の後を継いだ兄の宗清も「村上蔵人」を称している(「尊卑分脈」)ことから、養子以前(父の顕清や祖父の仲宗の代)から村上姓になっていたと考えられる。

この時期の系譜

仲宗-顕清-為国
仲宗-盛清=為国-信国

治承・寿永の乱
その後の為国親子は、信濃国の木曽地方で挙兵した源義仲軍に参加し、義仲とともに寿永2年(1183年)7月28日に上洛。しかし、義仲と後白河法皇が対立すると後白河法皇方に味方し、多田行綱の指揮下で水島の戦いから帰京した義仲軍と11月19日に法住寺殿の合戦で戦うが敗戦。基国が戦死し信濃へ帰国。源頼朝が後白河法皇の院宣に従い、源義仲討伐の軍を起こすとそれに参加。その後の平家追討にも参加し、一ノ谷の戦いで記録に残る。

鎌倉時代
鎌倉時代の村上氏の立場
同じ河内源氏出自で平家追討に功績があったものの、源頼義・源義家父子の系統ではないため守護などへの登用はなく、一御家人という地位に甘んじることになった。まして、鎌倉幕府の実権が北条氏の手に移ると、北条氏と結縁のない村上氏は鎌倉幕府の中枢からは忘れられていった。

その間、村上氏は下記のように家督を相続していった。

村上為国-信国-安信-信村-胤信-信泰

鎌倉幕府倒幕と村上氏
鎌倉時代末期の村上氏の当主村上信泰は、幕府内では忘れ去られた存在であったとされる。歴代の村上氏は鎌倉幕府に対して恩顧の意識はなく、逆にその勢力を認めない幕府に対して不満を募らせていたと思われる。信泰の子村上義光が大番役として京にあったとき、倒幕を考えていた後醍醐天皇の皇子護良親王が接近し、村上氏に対し倒幕を示唆したとされる。義光は元弘元年(1331年)の元弘の変が起こると、護良親王に従って十津川、吉野、高野山などを転戦して2年にわたり幕府軍と戦い続け、元弘3年(1333年)幕府軍に追われ吉野から逃亡する際には、護良親王の身代わりとなって腹を切ったと伝えられる。その義光の子村上義隆も、同じく吉野でしんがりをつとめて討ち死にするなど、倒幕のために働いた。

建武の新政と村上氏
義光・義隆父子の後は、信泰の子で義光の弟である村上信貞が家督を相続し、義光親子の功績などもあり信濃国での権益と勢力を建武の新政下で一定の枠内で認められ、「信濃惣大将」と称せられるようになった。建武2年(1335年)に諏訪氏や仁科氏などが北条高時の遺児北条時行を奉じて挙兵した(中先代の乱)の際には、信貞は乱鎮圧のため信濃国各所に出兵し、事実上鎮圧軍の主力として北条与党の豪族達と交戦した。

南北朝時代
南北朝争乱と村上氏
箱根竹の下の合戦には足利尊氏の弟足利直義軍に加わって新田義貞軍を撃破する際に戦功があり、小県郡塩田庄を与えられていることから、村上信貞は足利尊氏が謀反を起こした際には足利方についている。それ以降、信濃守護職に補任された小笠原貞宗とともに、信濃国内の北条与党の討伐に邁進した。この頃の村上氏は、南朝・北朝というよりは反北条という立場だったが、北条時行とその与党が後に南朝方となることから、北朝よりの立場で信濃国での勢力拡大と地位向上を目指していた。

惣領家である信濃村上氏は次第に北朝方に近い位置に移動していったが、村上氏がすべて北朝方であったわけではなかった。前述の村上義光、義隆父子の系統である村上義光の子で義隆の弟、もしくは義隆の子とされる村上義武、その子、村上義弘は南朝方について活動していた。それが村上水軍と後に言われる勢力である。

伊予国を中心に瀬戸内海に活動した村上氏は、源仲宗の時代に、伊予守になった伯父、源頼義に従って伊予に下向した時期があり、後に、前述の白河上皇呪詛の事件があり、どちらも瀬戸内海に面している周防、讃岐に流され水軍と深い関係を結んだ。その孫にあたる村上定国(前述の村上為国の弟)が治承・寿永の乱の際に、再び関係を持ち、村上水軍の初代となったとされる。その村上水軍を味方にするために後醍醐天皇ら南朝首脳は村上義武を派遣し、その子、義弘が水軍の村上氏を相続したとされる。

この時期の村上氏は、信濃では北朝方、瀬戸内海では南朝方として活動していたことになる。

室町時代

幕府との対立
村上信貞の後は、その子村上師国、そして師国の子村上満信と系譜がつながり、師国・満信父子は、村上氏の勢力と権益を認めず守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、幕府が補任した守護を排斥する動きを見せた。くわえて室町幕府は村上氏の持つ「信州惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国人衆の代表格として認識されるようになる。

幕府はそれに対して、幕府の重臣であり足利一門で実力者の斯波義将を信濃守護に補任して、村上氏らの動きを抑え込もうとした。至徳4年(1387年)、村上師国は斯波氏の守護代二宮氏の軍と信濃国北部の各所で戦い、斯波氏も村上氏の抵抗を抑え込むことはできずに終わった。

師国の子・村上満信の代にも、信濃守護に補任された小笠原長秀が率いる守護軍と村上満信を始めとする国人勢力(大文字一揆)が篠ノ井で激突し、小笠原勢は撃滅され長秀は京都に逃亡し、守護を罷免されている(大塔合戦)。

村上氏の衰退?
応永23年(1416年)「上杉禅秀の乱」が起こると、小笠原政康が中心になって一族・国人衆を率いて信濃国の防禦を固めた。この乱を契機として信濃国内の軍事指揮権を掌握した小笠原政康は幕府にその実力を認められ、12月に信濃守護職に任命されて力をつけていった。その結果、相対的に村上氏の勢力は弱まり始めた。

満信以降、村上中務大輔という者が反守護の中心となる。系譜上で中務大輔という人物を特定できないが、村上持清の可能性がある。その村上中務大輔を中心とする反守護軍と永享5年(1433年)3月に守護小笠原政康軍と合戦におよび、村上氏は鎌倉公方足利持氏に加勢を求めた記録があり、持氏は出兵を決断するが関東管領上杉憲実の諫止により沙汰止みとなった。そのためか、村上中務大輔はその後、史料にみえない。推測でしかないが、この戦いの結果、援軍を得られなかった村上中務大輔は滅亡もしくは衰退したのではないだろうか。また、援軍を求めるようになった背景には村上氏の衰退と小笠原氏の台頭があったとことが推測される。

村上頼清と関東の戦乱
村上中務大輔にかわり史上に現れるのは、氏祖の源頼清と同じ名を持った村上頼清で永享9年(1437年)に自ら将軍足利義教に出仕した記録がある。

前述の足利持氏と上杉憲実が前記の件から次第に関係がこじれて、ついに永享10年(1438年)8月、永享の乱が勃発する。永享の乱は上杉憲実に室町幕府が加担したために短期間で終わった。しかし、その持氏の遺児を擁して関東の雄、結城氏朝が挙兵し、永享12年(1440年)年3月、結城合戦が起こると、村上氏をはじめ信濃国の有力国人たちも守護小笠原政康に従っている。

この時代の村上氏の系譜

村上信泰-信貞-師国-満信-中務大輔(持清?)→村上頼清

村上氏の系図の混乱
中務大輔もはっきりと満信の子であるとはわからないし、実名も不明で推測で村上持清のことではないかとしたが定かではない。頼清に関しても史料的に確認が取れない。頼清に関しては村上信貞の弟、村上義国の子とする説、村上信貞の兄、村上国信の子、村上国清の子とする説。村上持清の子とする説。村上満信の弟、村上満清の子とする説など多数あるが確定を見ていない。義国については優良な史料では存在の確認が取れていない。また、持清の子には成清という子以外は史料にみえない。満信の弟に関しても優良な史料には記載がない。それぞれに問題点をはらんでおり、この時期、村上氏の存在意義およびその勢力が衰退していたことを傍証している。

諸説一覧
村上信泰-義国-頼清
村上信泰-国信-国清-国清
村上信泰-信貞-師国-満信-持清-頼清
村上信泰-信貞-師国-満清-頼清

小笠原氏の内紛と村上氏の再興
実力者小笠原政康の死後、小笠原氏惣領職をめぐって政康の長男の小笠原宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた政康の甥(兄の子)の小笠原持長との間で家督相続をめぐって争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐でも功績があり、幕府の実力者管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。 しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃国と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され小笠原宗康が信濃守護職に補任された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安3年(1446年)、小笠原宗康は弟の小笠原光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に譲られていたため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。その結果、持長と光康の対立は続いた。 その戦乱の中で村上氏は着実に勢力の回復を図り、中信濃と南信濃に分かれて対立する小笠原氏を尻目に北信濃を手中に収めていった。この当時の村上氏の当主は、頼清の子、または孫と思われる政清であった。

戦国時代
戦国大名としての躍進と没落
村上政清、村上政国父子は近隣の有力国人海野氏幸を討ち、小県郡から佐久郡へと勢力を拡大していった。政国の子である村上顕国の事跡は詳らかではないが、佐久郡の有力豪族大井氏を服属させ、大井氏の後ろ盾として甲斐国から佐久郡に侵攻を始めた武田氏との抗争、北部では高梨氏を圧迫し勢力を広げていったとされる。一説には政国は「頼清」と顕国から「頼平」(頼衡)とも名乗ったとされ、政国(頼清)、顕国(頼平)の時代の信濃村上氏が源氏の名門として再興するだけの実力を備えていたことを推測させる(ただしこの時期の村上氏の系図が混乱していることは前述した通りである)。その子村上義清の時代に佐久郡を武田信虎に奪われるも、武田氏・諏訪氏と手を組んだ海野平の戦いで海野氏や真田氏ら小県郡に残っていた滋野氏一党を駆逐することに成功した。しかし、甲斐国の武田信玄との抗争に敗れ、北信濃を追われることになる。その後の義清は越後国の上杉謙信の客将となって失地回復を図ったが成功することはなかった。

安土桃山時代・江戸時代
義清の子の村上国清(山浦国清)が武田氏滅亡後一時的に信濃に復帰するも、上杉氏の家臣としての立場であった。国清は上杉家の内紛に巻き込まれ没落し、歴史から姿を消す。国清以降の信濃村上氏については各説あって定かではない。また、村上氏諸氏の一部は上野国、下総国等の国々に飛散してしまったといわれる。なお、安土桃山時代に登場した村上頼勝は信濃村上氏の一族と称している。

現在の村上氏
村上氏は全国でも上位にある大族である。しかし、多くは瀬戸内海地方(広島県、岡山県、愛媛県、香川県、山口県)に多く、それらは村上水軍の村上氏の末裔やそれに由来する人々で、信濃の村上諸氏の子孫は新潟県や埼玉県、千葉県等の一部に見られるがそれほど多くはない。2005年長野県坂城町において「村上サミット」が開催。

村上氏の末裔といわれる墓標は長野県上水内郡飯綱町に現存している。

2009年01月21日

漁師(りょうし)

漁師(りょうし)とは、漁業を職業としている人のこと。職漁師。漁夫とも。漁師のうち、川魚漁を専業とする者を特に川漁師という。

漁師には専業として従事する場合もあるが、出漁期以外にはもっぱら農業に従事する半農半漁のような労働形態をとる例もある。

なお、生業として漁撈活動をおこなうのではなく、趣味・娯楽として漁をおこなう者は遊漁者と呼んで、職漁師とは区別する。

漁師という職業の歴史的起源はそうとう古く、その地理的分布は、全世界の海面(海)および内水面(河川・湖沼)の近辺に及んだと考えられる。四方を海に囲まれた島国である日本においても、その職業的起源の古さは貝塚や延喜式に見られるとおりである。また、漁船の動力化など、漁業の機械化によって漁場が拡大するとともに、漁師は生活圏の近辺だけでなく、より遠方の漁場にまで進出することが可能になった。

海藻などの定着植物を採集する例もあるが、魚類などの移動性の高い水性動物を捕獲の対象とするため、対象生物の生態や漁場に関する知識、漁法における技術など、漁師は高い専門性を必要とする職業である。

また、人間にとって統制の及ばない自然環境のなかで、事故などの危険に直面しながら、移動性の高い魚類などを対象とするため、船舶に乗って目的の魚群のいる場所まで出漁したり、一定の場所に魚類を追い込んで捕獲するなどの工夫が必要とされる。

漁師の就業形態は、獲る対象(魚介類)、漁法などによって大きく異なる。そのことが漁師の生活形態にも影響をあたえる。例えば、日本の漁師の大半は近海漁業に従事しており、出漁した当日や1?2日で帰宅しているが、遠洋漁業に従事する漁師では地球規模で移動し、数ヶ月以上海の上に留まり自宅に戻らない生活を送ることになる。

また、一生のほとんどを船上で過ごす家船(えぶね)と呼ばれる船上生活漁民の姿が、かつて九州や瀬戸内海に広く見られた。

日本の漁業法上の諸定義
漁師という言葉は標準的な日本語であり、漁師自身も「漁師」という言葉を使うが、漁業法制上では「漁師」や「漁夫」という語は見られない。

漁業法では、「漁業者または漁業従事者たる個人」のことを漁民と定義している(14条11項)。この漁業者、漁業従事者について、同法は、「漁業を営む者」を「漁業者」と定義し、「漁業者のために水産動植物の採捕または養殖に従事する者」を「漁業従事者」と定義している(2条2項)。この定義にしたがえば、漁業者は漁業の経営者であり、漁業従事者は漁業者に雇用されている者を指すことになる。

沿岸漁業などでよくみられる家族規模でおこなう漁業では、家長以外の者は漁業従事者に類される。また、沖合漁業や遠洋漁業で顕著であるように、大型船舶を所有する水産会社に雇用されて出漁し、その会社から給与を得ている者もまた、漁業従事者である[1]。
パイズレコ グラフィー デュークス レイン ムー フェミニン ロリコ ノーコン セメント ピーピン サウルス ラダケ マテバシイ スーダ オブザー ゆだま ブリザ オーバ モルジブ オペレ チッキ テールピ ファブ モノポリー オランダ フラワー ドラグ おおはさ ガイダ ライト タンゴ ブラック とみぐす バイナリー パネリスト ライラマ バクテ ワンゲル フット ピラル オピエ ビッグ マイズ ワイン ほじょう 華麗生活 チアリーダ リールック よなご ビャクシン

日本での現状と課題
水産庁公式サイトによると、日本国内の漁業就業者数は、1953年(昭和28年)の約80万人を頂点に、以降は減少傾向が続き、2005年(平成17年)のそれは22.3万人にまで落ち込んでいるという。また、漁業従事者の高齢化も進んでおり、男子就業者では全体の約3割が65歳以上、そして、25歳以下の若年就業者は全体の3%にとどまっている[2]。

水産白書によると、日本の漁師の漁撈による年収の平均は296万円である[3]。

漁業が生業である以上、漁師もまたそれなりの経済的合理性と、従事者各人(およびその被扶養者)が生活を続けてゆける程度以上の利潤を(長期的視点において)もたらすことは要請される。 また、比較的大きな利潤を得られた(一部の)漁師の事例に惹かれて漁業を選択する者もいる。だが、陸上における生産生業とは異なり、漁業の場合、次のような諸点が経営リスクを高めている。

まず第1に、漁師は、豊漁・不漁による収益の不確実性にさらされている。移動性の高い魚類を漁撈対象とする場合や、回遊魚などを追いかける季節的漁業の場合に特にそのような不確実性は高いが[4]、比較的経営が安定する養殖業の場合も、魚病の発生や、それを予防するための薬の投入によるリスク、漁場汚染の可能性などを考慮する必要がある[5]。

第2に、漁船などの固定資産の投資比率が高いことが、漁師の漁業経営を圧迫する。経営規模の小さい沿岸漁業でよく使用されている5トン前後の高速小型イカ釣り漁船の場合、漁撈効率を高めるために集魚灯、超音響測深器、高性能魚群探知機、自動操縦装置などのハイテク漁業機器を装備すると、一隻3500 - 4000万円はかかる。そしてその償却に10年もかけられないため、高額のローンの返済に追われることになるという[6]。

第3に、漁業資源そのものの枯渇化があげられる。漁船の動力化や大型化、合成繊維網の開発など、漁業の近代化は漁獲量・漁撈効率をいちじるしく向上させたが、その一方で、自然の再生産を上回るほどの乱獲が危惧されるようになって久しい[7]。そうした傾向は、近年の日本以外の諸国における魚食ブームによって、さらに強められるのではと懸念されている。