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テクノポップ

テクノポップ(Techno-pop)は、シンセサイザー・シーケンサー・ヴォコーダーなどの電子楽器を多用したポピュラー音楽を指す和製英語。

1979年から1981年にかけて[1]、YMOブームと並行するかたちで日本で大ブームとなった。英米では同様のスタイルのポピュラー・ミュージックをエレクトロ・ポップと呼ぶが、ニュー・ウェイヴの一傾向と認識されたに過ぎず、日本のようなブームとはならなかった。

1988年ごろから世界的に流行しているダンス・ミュージックの一スタイルに「テクノ」がある。テクノポップは略してテクノと呼ばれることが多かったので紛らわしいが、これは1980年代半ばに生まれたデトロイト・テクノをルーツとするものであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはない。

2000年代後半、中田ヤスタカプロデュースによるユニットPerfumeが大ヒットしたことにより、テクノポップが再び注目されている。

テクノポップの歴史 [編集]

最初のブーム [編集]
テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演した際に使ったことにより、一般に広まったというのが定説である[要出典]。

代表的なグループは、ドイツのクラフトワークと、日本のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)である。ほかに日本では「テクノ御三家」として、P-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが人気を博した。それぞれ独自のバックボーンをもち、シンセサイザーやシーケンサーなどの電子楽器を用いて新たなポピュラー音楽を創造しようとした点のみが共通する。クラフトワークのほかに日本のテクノポップバンドに影響力の大きかったバンドとしては、アメリカのディーヴォの名前が挙げられる。

同時期の、シンセサイザーを多用したポピュラー音楽を英米では「エレクトロ・ポップ」「シンセ・ポップ」と呼んでいる。コンピュータやMIDI機器を用いて制作した音楽は特に「コンピュ・ミュージック」と呼ぶ。日本において「テクノポップ」にカテゴライズされた海外のミュージシャンが、「テクノポップ」という言葉を知らなかったという例は多い。また、日本以外のメディアにおいてこの用語が使われる頻度もほぼなく、現在もiTunes StoreやAmazonを始めとする多くのWEBサービスにおいて、ジャンルとして設定されていない。

クラフトワークは1983年に『テクノ・ポップ』と題するアルバムのリリースを告知したがお蔵入りとなり、1986年になってやっと『エレクトリック・カフェ』をリリースした。この中に「テクノ・ポップ」と題する曲が収録されている。バグルスが1980年に発表したアルバム『THE AGE OF PLASTIC』(邦題:プラスティックの中の未来)の1999年リマスター版には、LPオリジナル盤では収録されなかった追加3曲のうちに「TECHNOPOP」[3]という曲が収録されている。当時それなりに「テクノポップ」という言葉が英米に伝わっていたことがわかる。

ブーム期のテクノポップ・バンドとして、ジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、サエキけんぞう率いる少年ホームランズ・ハルメンズ、久保田真吾率いる8 1/2、高木完が在籍した東京ブラボー、小川美潮が在籍したチャクラ、土屋昌巳・見岳章の在籍した一風堂、戸川純、戸川と上野耕路が結成したゲルニカ、などがある。

1980年代中期以降 [編集]
1985年頃に起こった第二次バンドブームなどの影響もあり、テクノポップやテクノ歌謡はメジャー音楽シーンから消えていく[4]。

一方テクノポップに変わり電子音楽の主流となったジャンルの1つはテクノで、1988年に世界的に流行し日本では電気グルーヴ、ケン・イシイ等が有名となる[5][6]。

またこの頃は「シンセサイザーを駆使しているがテクノポップとは異なる」音楽、すなわちTM NETWORK、accessのような日本的デジタルロックや喜多郎、姫神のようなニューエイジ音楽などが世間一般に支持されていた。

楽器メーカーが数々のシンセサイザーを発売し低廉化・大衆化する動き[7]もあったものの、1990年代末期までの間はテクノポップのリバイバル化に直接影響することは無かった。

1990年代末以降 [編集]
テクノポップが再度扱われるようになったのは主にインディーズ音楽シーンで、いち早くMOTOCOMPOやOver Rocket、8SCOPOなどがテクノポップやフューチャーポップを手がけるようになる。さらにテクノ音楽シーンではKAGAMIがシンセサイザーやボコーダーを駆使したテクノポップ寄りのダンス・ミュージックをリリースし人気を集める。

海外音楽シーンの影響もリバイバルに拍車をかけている。 2000年末にリリースされたダフトパンクのヒット曲『One more time』以降、ボイスフィルター[8]による機械的なボーカルが日本でも取り入れられるようになった。

2003年に中田ヤスタカプロデュースによるユニット、Perfumeが東京のインディーズレーベルでシングルを発売、この中にジューシィ・フルーツのヒット曲『ジェニーはご機嫌ななめ』をカバー収録。テクノポップの再アピールが目立ち始める。

2008年にPerfumeのアルバム『GAME』が、「テクノポップ・ユニット」と称されるユニットとしては、YMO以来4半世紀ぶりにオリコン週間チャート1位を記録した。近年のテクノポップムーブメントは、中田ヤスタカに負うところが大きいが、「テクノポップ第二世代」を掲げるAira Mitsuki、Sweet Vacationなどを初めとする数々のフォロワーも現れ、テクノポップへの関心が高まっている。また、「キラキラ系」「ピコピコ系」「乙女ハウス」「フレンチ(エレクトロ)ハウス」など様々な分類がなされ、ジャンルの統合、細分化が起きている。

これら一連の動向とは趣向が異なるものの、NHKのインディーズバンド勝ち抜き番組『熱唱オンエアバトル』での装置メガネの数回に渡る全国放映や、『おしりかじり虫』[9]のヒットもテクノポップ・リバイバルに貢献した出来事の1つである。

インディーズ音楽シーンにおいてもシンセサイザーやPCのさらなる普及により、FLOPPYやpLumsonic![10]などのテクノポップアーティスト、T4P recordsやウサギチャンレコーズなどの専門レーベルが活躍している。

テクノポップ周辺の音楽について [編集]

テクノ歌謡 [編集]

歌謡界でもっとも初期にシモンズ(en:Simmons (electronic drum company))のシンセドラム(en:Electronic drum)を使用した楽曲はピンク・レディー『サウスポー』(1978年3月)であり、もっとも初期に「イエロー・マジック・オーケストラ」を「編曲」に起用したのは、近田春夫『エレクトリック・ラブ・ストーリー』(1979年)である。筒美京平が初めて手がけた「テクノ歌謡」が、榊原郁恵『ROBOT』(編曲船山基紀、1980年6月1日)である。このあたりから「テクノ歌謡」は出現する。

細野晴臣が作曲・編曲したイモ欽トリオの『ハイスクール・ララバイ』はミリオンセラーとなり、川上さんと長島さん『きたかチョーさんまってたドン』(作・編曲:細野、1983年)ほか、当初コメディアンに多く楽曲が提供される。その後、アイドルの楽曲でもテクノポップ調の伴奏をバックに歌唱するスタイルが確立。のちにこれらは「テクノ歌謡」と呼ばれた。当初は打ち込み演奏+生演奏でニュー・ウェイヴやテクノを意識したものを特別にカテゴライズしていたが、その後打ち込みが一般的になってくるとこの名称は使われなくなった。

フューチャーポップ [編集]

テクノを始めとするダンス・ミュージックにメロディアスな歌詞を加えた派生音楽の1つ。『YUMEGIWA LASTBOY(SUPERCAR、映画「ピンポン」の挿入歌)』が有名。他にRAM RIDER、元気ロケッツなどが有名[11]。

チップチューン [編集]

ファミコンなどFM音源以前のゲーム機・PCの音源をメインに用いた電子音楽の1つ。日本ではYMCK、トンガリキッズなどが有名。

ヨツバ コルヒチ モネ しおざけ ネルガ ポッド あめりか フレーズ めいわ ラッピ ビンカミン ハザード ソロモン サブライ イシミカ ナシ ティング トラス プライス インチ ネオン コスト ミラショーン レコード カカオマス 白い微笑 ハンドメイド チェンジ Sロガー レンディー パネル 霜の花 レモン テレワ スター ラオオ チュニス ナビラメ きょくし ぽろり モデラート レンジ はさま ハマメリス プログラ ルフィ アゲート フクジ トリッキー マツバ

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2009年04月08日 09:38に投稿されたエントリーのページです。

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